第29話“一期一会” Shyrock作

惠が降車するよりも早く、私自身が降りて惠の下車の補助をしました。
惠の悲しそうな顔を見るのは辛かったのですが、それが運転手としての私にできる最後の務めと思ったのです。
もしも願いが叶うならば、ドアを開けずにずっとそのまま惠を閉じ込めておきたい…それが私の本音でした。
惠がドアを開けてクルマから降りてしまうと『もう永遠に会えない』と思いました。
一生にたった一度の邂逅……
茶道には『一期一会』という言葉があります。茶会に臨む際は、その機会、その人との出会いは一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くせ、という茶会の精神から生まれた言葉だといわれています。
惠はたった一夜でしたが、精一杯私に真心を尽くし、今、去っていこうとしています。
私もまた刹那の瞬間を私なりに懸命に過ごせたと思っています。
そんなふたりにもついに別れのときが訪れました。
瞼の辺りをハンカチで拭った惠はおもむろに後部座席から出てきました。
世間の運転手がお客様にするように、私も同様に礼を述べました。
「ありがとうございました……」
「なんや、水くさいなぁ……」