知佳の美貌録「腹を空かせた弟のために」

この写真は昭和30年代は完全給食の形を取り始めた初期のころの配膳の様子ではないかと思われます。 殆どの方の記憶にある学校給食の配膳とは担当に当たった子供たちが配膳を行っていたのではないでしょうか。 給食の中身もすですが、富む自治体と給食費が払えない子供たちが多い自治体ではその中身に相当の違いがあったようです。 それと同様に配膳も、子供たちに行わせる自治体と、そうでない自治体が混在していたようです。 教育者が中心になり配膳を行っていた自治体ではご覧の、当時はまだアメリカ軍の払い下げのアルミの容器が使われたりしており、パンのほかに惣菜が一品というのがほとんどで、牛乳の代わりに栄養分が高いとされる脱脂粉乳(ドラム缶のような容器に入った粉をお湯で溶かす)が支給されていました。 これが臭くて飲めない子が多く、飲み残すものだから先生が学生一人一人に配りつつ飲み残さないよう見張ったりもしていました。 脱脂粉乳が体質的に合わない子などは給食時間いっぱい使っても飲めなく、それでも強要されるものだから嘔吐し涙を流す子もいたようです。 この物語に登場する久美は周囲と比べ比較的恵まれた家庭(女衒家)に生まれ育ったにもかかわらず親の身勝手で貧困層の中で暮らさざるを得なかったものだから馴染めぬ味に飲むのに苦労したといいます。 が、学校が始まると程なくして親は生活費を持ってきてくれず、飢えは確実に姉弟の躰をむしばんでおり、生きるために仕方なく目をつぶって飲んだといいます。 自分ひとりなら飲まない手もあったでしょうが、家で飢えて待つ弟に、せめて何かを食べさせてやろうとしたとき自然に体が動いたと言います。
盗人呼ばわりされるほどみすぼらしかった姉弟
時代は東京オリンピックが行われた正にその頃、5歳とか7歳やそこいらの子供に、生きていくため最低限の食べ物を与えてもらえないというようなことが実際あったんでしょうか? ましてやそれが世間のつながりが深いと言われる大阪でです。 それを証言する逸話を久美は語ってくれました。 ある日のこと、もう3ヶ月以上も来てくれない父親をそれでも来てくれることを信じ姉弟は待っていたそうです。 最後の米もとうに尽き、食べるものが何処を探しても部屋の中には数日間なかったといいます。 弟が腹をすかせ体調を崩してどうにも困った久美は、それでもどうにかしようと毎日暇を見つけては街をさまよい食べ物を探したといいます。 恐らく残飯を漁っていたと思われるんですが、ある日、父親からお金を受け取ると真っ先に買うコロッケ屋の前に立ったとき、コロッケ屋の主が久美を見てコロッケを盗みに来たと言いがかりをつけ物陰に引きずり込んで強かに打ち据えたそうです。 一瞬気が遠のいたといいますがこの時のことを久美は「体が痛むことよりも、腹を空かせた弟のために何も持って帰れない自分が辛かった」と語ってくれました。
食べたふりして鞄に入れて持ち帰れるものは何でも持ち帰った久美
何故にそれほど辛いと思うのか? それは、久美は学校に行けば給食を食べることができますが、弟は学校に行けないため一日中何も口にできないんです。 そこで久美は給食の脱脂粉乳だけは鼻をつまんで我慢しオカズと共にゆっくり食べ・飲み干し、全員が給食を食べ終わる頃にお腹いっぱいのふりをしてコッペパンをコッソリとカバンに隠して自宅に持ち帰り弟に与え続けたといいます。 このコッペパンを弟は待ちわび喜んで食べてくれたと語ってくれました。 その食べる姿を見るのがいちばん嬉しかったと。 ですがこのことが同級生の告げ口により露見し教員室に呼びつけられ教頭に強かに、再び打ち据えられることになるんです。
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