知佳の美貌録「無賃乗車 暁闇、走行中の汽車からの脱出」

近年見ることできなくなった客車と貨物車、その両方を引く長大な黒い塊。 赤白の旗を持った誘導員が走る列車に飛び乗る。 先端に飛び乗り誘導に当たるのは万が一の安全を考えてのためだった。 停車・徐行中の列車が同一線路上に間違って居たり、ポイント切り替えに失敗し、逆走してくる列車がいるとも限らないからだ。 当の列車は重すぎて急に止まれないものだから重大事故につながりかねない。 それを避けたいがためだった。 ベテランだからできる走行中の列車への飛び乗りや飛び降り、それを好子はポイント手前で幼い姉弟に命じた。 母子は大阪の大きな駅に停車していた各駅停車の列車に駅構内を通らず防護柵を越え飛び乗った。 無賃乗車だった。 各駅停車は車掌が見回ることは滅多にない。 各駅に、例えば郵便列車は郵便物を下ろすため長時間止まる。 母が懸けた飛び降りの合図は誘導員に見つからないよう下車させるためだった。
招かれざる客
大阪で住まわざるを得なくなったある日のこと、見も知らぬ女が訪ってきた。 挨拶もそこそこにズカズカと部屋に入り込んでくる女。 久美が咎めると「あんたたちのお母さんに頼まれた」と言い放った。 「相部屋だったもんだから・・・」と言い出すのを聞いて、慌てて久美は女を表に連れ出した。 弟にだけは母の居所を悟られたくなかったからだった。 帰ってきた幸吉はというと、妻の代わりの女が自分から進んで家に乗り込んできたことに上機嫌で応じた。 働かないのに一人前に食う女が、久美たちにとって母がわり、幸吉にとって妻がわりの女として同居することになった。 そこは牢を出たばかりのオンナと、久しくお世話になっていないオトコのこと、最初こそ猫を 被っていたが、ほどなくして久美や弟に暴力を奮うようになる。 幸吉がなにがしかの金品を手渡さないのが操を捧げたオンナとしては気に食わないらしい。 姉・弟は幸吉の代わりに殴られることになり、青あざだらけで学校に通うことになり、ついに学校から問い合わせが来た。 教育委員会からの問い合わせに幸吉は青くなり、しぶしぶオンナを追い出してくれた。
母の出所
母は刑期半ばで出所した。 女衒の嘆願が実ったからだった。 同じ房にいたという女が子供たちの世話してやると訪ねて来て、散々暴力を奮って出て行ったと久美に聞かされ、好子は初めて我が子に頭を垂れた。 女の様子からも、かつてあの詐欺まがいの売春をともにやった仲間のひとりだった女、繋がれたことは確かだが同房はありえなかった。 どこで好子の住まいを知ったか知らないが好子のいないスキにちゃっかり母として妻として居座ろうと乗り込んできたらしいことだけはわかった。 父は恐らくそれと知りつつ利用し、帰ってきた母は激怒してくれた。 久美たち姉弟にとって母は生活を支えてくれる要だったのだと改めて思い知らされた。
防護柵を乗り越え列車に飛び乗る母子
しかし幸吉は違った。 幸吉にとって好子は夫というものがありながらほかの男に現(うつつ)を抜かす雌でしかなかったのである。 出所するや否や以前にも増して暴力は酷くなり、笑って済まされる状態ではなくなっていった。 浴びるほど呑んで散々暴力をふるう父が寝込んだある夜、好子は二人の子供と実家のある街に向け逃避行を企てた。 駅まで遠い遠い道のりを歩き、夜行列車に線路上から這い上がり無賃乗車で実家に向かった。 駅の防護柵を乗り越え列車に乗り込んだ。 乗るときは確かに止まっている汽車だったので久美はなんとも思わなかったが、完全なる無賃乗車、途中何度か車掌が見回りに来るのを避けるのが大変だった。 好子は車掌が切符切りに来る時間をなぜかよく知っていて、それまでの間は座席で3人とも寝たふりをしろといわれた。 切符切りが来る、その都度トイレに3人で鍵をかけずに立てこもり(鍵をかけるとおもてで待たれてしまう)、やり過ごした。 見つかれば最寄りの駅で引きずり下ろされ警察に引き渡されてしまう。 そうなれば母は再び獄中につながれる。 寝たふりをしながらも冷や汗が出た。 明け方、汽車は実家の駅に近づいた。 この時である、久美は今でも忘れられない恐怖を味わったのは。 汽車が車速を駅の構内に入るため落とし始めた。 その、落としてはいるものの走行中の汽車から飛び降りろと母はせかし、先に弟を抱え飛び降りてしまった。 写真の客車とも貨車とも取れない巨大な塊から真っ暗な線路上にである。 先に飛び降りた母は走り去る汽車を追い盛んに久美に声をかけるが汽車の速さに追いつけず、どんどん遠のいていってしまう。 久美の身体は硬直し今一歩が踏み出せないでいた。 その時、ポイントの切り替えがあり汽車は大きく揺れ 瞬間、久美はデッキから線路上に振り落とされた。 痛みと恐怖で動けないでいる久美の足先を巨大な車輪が通過した。 車輪に巻き込まれることなく線路わきに這いずり出ることができたのである。 それからがまた大変だった。 久美が下りたのは駅の構内近くだったため例の旗振りの駅員に見つかってしまった。 捕まらないよう、駅の裏の柵を飛び越えなければならないが、小さな久美では容易に飛び越えられる高さではなかった。 追手はすぐ近くまで迫っている。 久美は柵が腐って小さな隙間ができている場所を見つけ、そこから外に這いずり出た。 駅の裏を流れるどぶ川の中を半ば泳ぐようにして必死で逃げた。 どぶ川といっても今見ると深いところで小さな子の背丈ほどの澱みがいくつもある。 岸近くは雑草が生い茂り大人の足でも昼間歩くことですら簡単ではない。 が、そんな場所をである。 こうやってたどり着いたのが好子が目星をつけていた実家近く(実は全く違う場所に実家はあった)の穴倉(防空壕のできそこないみたいな穴)だった。 親子3人、父親からの追跡を逃れ、当面、この明かりの射し込まない穴倉(防空壕のできそこないみたいな穴)で暮らすことになる。
恐怖が好子にもたらしたもの
官憲に逮捕され取り調べを受け、高窓から雲しか見えない独房に期間も定めず監禁されることがどれほどの恐怖を好子に植え付けたことか。 逃避行で好子が帰ろうとした実家とは 生まれ育った、あの懐かしい最盛期だったころの家のことである。 ところがこの間、時代の波に翻弄され女衒は次々に家や財産を失わざるを得ず、屋移りしている。 久美たちを、母が監禁されている間かくまってくれた屋敷も、実は久美たちに良い印象を与えようとした女衒の心配りだった。 その期間だけ借りてくれたかつての持ち家だった。 だから腐心して訪ねて行った先は更地になって久しく、思い当たる何物も もうそこにはなかった。 しかも生まれが忌み嫌われる穢多である。 聞き歩いても誰も引っ越し先など気にする、語ってくれる者はいなかった。 あのきれいだった祖母はとっくに亡くなっており、女衒も生きざまにふさわしい貧民屈の仮住まいに押しやられていたのである。 (何故かこの貧民窟と穴倉は近かった) 思い出の中にある街を、実家を、かつて女衒が保有したであろう家を求め好子は懸命になって捜し歩いたが結局見つけることができず引き揚げてくる。 せめて自分たちは母子が帰り着いて穴倉に潜み暮らしていることを女衒の伝えたかったのであろう。 それが叶わなかった。 恐怖がもたらした健忘症(一定期間の記憶だけ抜ける)だった。 だから今でも久美の話に出てくるご隠居様の家と、好子の中に眠る、あの懐かしい我が家とはまるで違う場所・方角、そしてその様子もまるで違うのである。 ひとり遊びしたという母の墓所さえ思い出せないのである。
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