知佳の美貌録「高原ホテルへの路」

その言葉が示す通り、確かに「目と耳と口があれば」なんでもできた。
裏を返せば「教えてあげたくとも知識なぞまるでない」と言い切られたも同じだった。
およそ当時の旅館などというものは金勘定をしながら運営しているわけではない。
水系でありさえすれば面白いほどに金が舞い込むから、趣味と実益を兼ね仕事をしているだけだった。
入金があればレジに適当に放り込んでおき、必要になったらそこから、これもまた適当に引き出す。
最後のつじつまは経理事務所に丸投げするのが普通だった。
久美が務めた旅館も、まさにそれの典型のような、ある種色事好きで派手好きな女将が仕切っていた。
入社早々、これまで担当してくれていた経理事務所に日参し、久美は損益計算書・貸借対照表を自力で作った。
これに基づいた決算書を経理事務所に提出し、久美は旅館に見切りをつけ去っている。 何故に離職かと問われれば・・・
毎朝レジから適当にお金を抜きギャンブルに使うヒモを囲っている女将が経営する旅館の損益計算書・貸借対照表を作り、決算書を提出するなどということは経理事務所の人間では到底真っ当な人間ゆえに出来る芸当ではなかった。
女将もヒモも色事に湯水のごとくお金をばら撒いて、女将などその寝てくれた男から料金を頂くどころか小遣いまで渡し送り帰していて、それをそっくりそのまま帳簿に掲載するなどということは社会理念上許されないことだからだ。
ましてや正当な看板を掲げている経理事務所にできるはずもない。
だがしかし、この旅館は特にそれをも炙り出さなければ収支決算が合わないのだ。
例年経理事務所が作って出していた決算書と違って、初めて大幅な赤字経営の実態が明らかになったからである。
当然女将は激怒した。
女将が久美に対しレジからお金をくすね懐に入れ、旅館を赤字経営にしたと経理事務所に調査依頼を提出した折に、逆に経理事務所は赤字は旅館の杜撰な経営が招いた結果であり、久美は優秀な事務員だったと伝えている。
好子と長い付き合いのある置き屋の女将こと旅館の女将の母親は娘を𠮟り、久美に旅館に留まってくれるよう懇願したが、久美の決心は変わらなかった。 倒産目前、ネズミだって沈没する船から逃げ出すという。 久美もそのいわれに従った。
稼ぎを絶たれ、打ちのめされ落ち込む久美に経理事務所はその腕を見込んで、この地区最大の問題を抱えている高原ホテルの破産管財を依頼してき。
吹けば飛ぶような小さな町の片隅にあるホテルが10億を超す債務超過にいたり、倒産の危機に直面しているにもかかわらず、経営者はそれでも現実を直視できないでいた。
そればかりではない、久美が高原ホテル在籍中に開業者は市内の金持ちにこのホテルの権利を黒字と見せかけ売却してしまっている。
旅館と同じように、稼いだお金を遊興費に湯水のごとく使って平気でいられる。
田舎者経営者がよくやる、会社が立ち上がった直後に思ってもみなかったほど儲かると浮かれ、立ち上げた時にいくら公的資金を投入していただいたかを、月々の返済額と頭金への利息とを、そしてまた施設の老巧化に対処するための設備投資が必要であることを忘れ、すべて自分の懐に入るお金だと勘違いしあぶく銭として浪費してしまう。
浪費と勘繰られた原因は使ったお金に対する使用目的を示さず領収書を経理に丸投げしたことが発端だった。 つまり何に使ったのか、白紙領収書を遅れ遅れに出せば皆目見当もつかないのである。 中には金額欄が白紙の数万から数十万に上る領収書まで混じっていた。
それを出来る限り古い書類から呼び起こし、彼らの行き先を発行社名から、或いは自慢話しから割り出し 事実であること、何に使われたかを調査し計上し、損益計算書・貸借対照表を作ってほしいというものだった。
久美は一旦は断っている。
探偵社じゃあるまいし、今更にあのエロ温泉を事実を求め這いずり回れとでもいうのか、家事・育児をこなしながら出来る範疇を、とっくに超えているからだった。
それでも何度も懇願され、引き受けたのは一にも二にも家計が苦しく、しかも夫がまるでそれを理解しようとしなかったからだった。
もしもこれをこなしたら、末はもっと経理の仕事がもらえはすまいか・・・
それに夢を託すしかなかった。
高原ホテルへの路
高原ホテルへ向かうにはふたつのルートがあった。
公的機関のバスを利用する以外に方法はなく、ひとつは観光客が主に利用する路線、もうひとつは住民だけが生活のために主に利用する路線だ。
観光客が主に利用する元有料道路経由で向かう急こう配を一気に登って行き高台に至るルートは近距離ながら高原ホテル開設当時それほど車の性能が良くなかったことから、例えばバスなども途中でエンジンを冷やすため休息をとったほどだった。
その点迂回して山に登るコースは遠回りとなるが勾配は時折きつくなるものの有料道路ほど険しくはない。
そのどちらを利用しても交通費は全額ホテルが持つと経理会社が保証してくれていた。
どちらも乗り換えがあるが、有料道路方面で行くと ほぼ全てのバスが高台が終点のごとく設定してあり、客は観光客の為 全員降りてしまうので始発から高台経由高原行きに乗る必要があり、もしも都合上高台が終点のバスに乗ったならネズミの額のような小さな高原に向かうバスを何時間も待つか延々歩くことになる。 高原行きの便は日に2本しかないからだ。
遠回りとは今住んでる市内からふたつの集落を奥山に向かってやり過ごしその高原の麓となる田舎町の国鉄駅を経由して山奥に分け入り、昔ながらの曲がりくねった登山道を登る。 いわゆる生活で利用する地域住民を拾いつつ登るルートなのだ。
久美が家事を終え子供を園に預けたとして元有料道路経由に乗ると、勤務時間内に辿り着こうとすれば高台から延々2キロばかり山道を歩いて通勤することになる。 どんなに急いでも午前中に辿り着けなかった。 そんなことをすれば疲れ果て、とても仕事どころではなくなる。 だから久美は通勤のほぼすべてを遠回りの国鉄〇〇町駅経由高原行きのバスに乗るしかなかった。
久美はこの、ふたつ目の町を経由するバスに乗って向かうルートをメインに選んだのは言うまでもない。
ただでさえろくすっぽ食べてなく栄養不足でフラフラする躰では、せめてバスに乗ってる時間ぐらい居眠りしたかったからだ。
家を自転車で出た久美は、いつも市内中心部にある公園前に自転車を置いてバスに乗った。
このバスは一旦ふたつ先の町の駅前まで国道を川に沿って登って行き、高原ホテル一帯を管理する町の駅から川を外れ方向を変えて山に登る。
駅までの乗客は比較的あるものの、駅から高原までの乗客は無いに等しいような淋しい路線だった。 出発して1キロも走れば辺りは閑散とした登山道に分け入るから誰も乗らない。 つまり駅までは県と複数の町村が連携をとって負担・運営に当たるが、駅から先は完全に麓の町が負担・運営を担う路線なのだ。
何故にそのようなバス路線を温存しているのかと言えば、その駅のある町にとって高原は唯一無二の稼ぎどころと認識していたから途中の乗降など必要ないと考えていたのだ。 ただ、建前上生活者のためのバスとして予算計上していたのだ。
人とは不思議なもので同じ山でも新緑に季節はそれほど興味を持たないのに、紅葉の季節ともなればドッと人は繰り出す。
ましてやネズミの額ほどの高原であっても、雪の季節ともなれば老いも若きも目の色を変えスキーやスノボーで混雑する。
全期間を通じ、わずか1~2ヶ月の行楽シーズンに、町は全力を挙げ高原の、或いはバスの存続に毎年力を入れてきたわけである。
まことにのどかな話しである。
他の会社に勤めていた時と同じように家族の世話をして、直ぐに自転車で出かけるのだが、ホテルに着くのはどうしても10時は回ってしまう。
時間と戦う街の会社と違い、田舎に時間など無い。
客もないのに、バスは駅で相当な時間を待ち、つまり乗る人など無いのはわかっているのに乗客集めで費やし、エンジンをごまかし誤魔化しアクセルを踏み、ノロノロと山を登った。
運転席の脇の席に久美だけが乗るこのバスは坂道を喘ぎながら登って高原を目指す。 そして誰も乗らないままのバスは高原ホテルの脇の停車場で客集めの為待機し、誰も乗せないままむなしそうに市内へと同じコースを辿って引き返す。 完全赤字路線。
そこまでしても破産管財整理のため、町とホテルの存続のため、現所有者に利権を放棄させるべく損益計算書・貸借対照表を作らなければならないのが久美に与えられた使命だった。
ホテルにようよう到着したその日、早速に一般従業員の皮肉を込めた歓迎の言葉が待っていた。
「こんな時間に出勤してきて、何か役に立つとでも思ってるの?」
雑業務をこなす古参のおばさんの元気すぎる第一声だった。
「ばかやろう!! お前らごときが束になってかかっても、この久美さんって方にかなうもんか。 嫌なら辞めてもらってかまわんぞ。 なんなら俺から支配人に伝えてやろうか?」
フロントの男性の一言で雑業務のおばさんたちは沈黙した。
経理1級の3項目の試験のうち、久美は2項目まで合格していて、残りの1項目はアルバイトを抜けることができず受かると学区側が保証したにもかかわらず断念している。
学年で全項目合格者はわずか4名。 久美は学年ベスト5を常に保持していたからだ。
もしも好子や幸吉のようなだらしない家族のもとに生まれなければ久美は全項目合格し、経理事務所に大きな顔して勤めていたはずの人物である。
それだけではない、学年の上位4人をもその頭脳で仕切っていた人物である。
それが立ち行かなくなったド田舎のホテルの倒産処理のため延々半日近くかけ、客が来なくなった山に登ってきている。 経理事務所でさえ匙を投げたホテル・高原にである。
時給だって市内の食品店舗にレジ係とさして違わないアルバイト給でである。 管理職一同、頭の上がるわけもなかった。 この先何日この状態で存続できるのか、それが久美の手腕にかかっていたからである。
だが、この日から事あるごとに女性陣は久美に辛く当たった。
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テーマ : 女衒の家に生まれ・・・ 高原ホテル
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