入谷村を捨ててまで行き着いた憧れの職業
ところがいざ蓋を開けてみれば見た目と違い内情はあることにより火の車だったんです。
昔の言い伝えに (働かざる者食うべからず) というのがあります。
昭和も30年代の入谷村では一家に働かないで食うものがいたりすれば忽ち大黒柱が傾きます。 公則さんの父 源三さんは生来の太公望で風流人、中組 (なかぐん) の左官屋 池之原幸次さん共々はったはった 入谷村きっての鮎釣り名人、メジロ名人と言われながら家族から言わせればとんでもない疫病神でした。
年がら年中これらに明け暮れるものですからそれを支えるのも大変です。 それにも増してふたりとも妻に逃げられていて源三さん、滅多にそういったことはないんですが一旦思い立つと矢も楯もたまらずまるで別人のようになって買いに走られるんです。
風流人だけにお相手も並の人では納得なさらず高級・・・これが上手 (かんて) 家の更に足かせになりました。
そこで公則さんは生活費を工面したく里の土工作業員募集に応じたのです。 華奢な手足で鶴嘴やスコップを握る。 山仕事を、山子を捨て家族のためにこの職業を選ばれた? いや選ばざるをえなかったんです。
- 人間五十年、下天(化天)の内をくらふれハ、夢幻の如く也 -
1184年(元暦元年)に謳われた敦盛 つまり人間の生涯はこの時代であっても50年足らずと言われていたものです。
栄養状態が良くなかった昭和30年代の入谷村でも生真面目に働く人は50歳あたりでそろそろ肉体的にはもう限界を迎えていました。 使い痛みが激しく、灸を据えようが按摩を施そうが元に戻らず働くこともままならず家族の御厄介になるばかりで悲嘆に暮れ仏法にすがるようになり、その落胆から一生を終わるのではないかと思うようになりました。 実際60代に差し掛かろうとする頃亡くなる人が多かったんです。 ところがそうでない人もいたんです。
ある時期はまことに裕福であったという上手 (かんて) 家に生まれた源三さんがそうでした。 何不自由なく育てられてきた源三さんは長じても汗水たらして働くことが嫌で丁度その年代 (50代) に達したころから道楽に拍車がかかり始めました。 例えば道楽のひとつ鮎釣りですが、入谷川の川幅は広い所で9尺、狭いところで3尺と、とても鮎が遡上するような立派な川ではありません。 そこで源三さんは時期が来ると目の色を変え自宅から延々半里ばかり歩き続け大川に出向いてそこで鑑札を取って釣りをされるんです。
その際用いられるのがこの辺りの人たちが使う竹藪で切って来たような粗末な延べ竿と木綿糸ではなくれっきとした和竿の継ぎ竿で、有名な竿師にわざわざ18尺の竿を作らせたものをテグスと共に使われていたんです。 魚籠 (ビク) に至っては自分で竹を編んで作ったものを愛用されていました。 たかが入谷村の爺様、されど仙人 生粋の風流人だったんです。
確かにその時代は今と違って魚影が格段に濃くよく釣れたそうですが、それでも所詮道楽で気が向くと釣行される程度の鮎釣りが日常食の足しにはなりにくいんです。 せいぜい源三さんの晩酌のツマミ程度にしかならず上手 (かんて) 家としてはどうしてもたんぱく源は荒勘さんのぶえんに頼るしかなかったんです。 現金払いできないものですからそれがまた倍増しのツケになりました。
入谷村のこの時代の教えは今のような子供中心ではなく盲目的な年寄り崇拝型でした。 働き盛りの者は飢えても爺様にはお酒煙草に女は切らしてはいけないという風にです。 上薬研 (かんやげん) の金兵衛さんのように忙しいとか焼酎を買う金に困るとなると子供を学校に行かせず飯も食わせずして山でこき使うなど当たり前の世の中で、悲しいかなたとえそうだとしても教育委員会が乗り出すなどということはまずなかったんです。 道楽の親を子は飲まず食わずで支えるのが美徳とされていたんです。 - おしん参照 - ですので源三さんもそうなら中組 (なかぐん) の左官屋の池之原幸次さんも然りで自分が悪いことをしてるなどと、ちっとも思わなかったですし、それが部落内では罷り通ってたんです。
むしろ冷たい水の中に入って鮎の友釣りをすることの方が山仕事より辛いとさえ思ってたんじゃないでしょうか。 だからこそやることが無くなると田んぼに入ったり山子に出かけたりではなく入谷川に釣りに行ったりメジロを囮を使って鳥黐 (とりもち) ・・・などなど平気で出来たんです。
「ねえあんた、爺さんまた鮎釣りらしいよ」
まるで白魚の如く透き通ったお顔・・・じゃなく疲れ切って青ざめた顔を上げ、こう告げる美智子さん
せめて田植えの後の草取りぐらいして欲しいこの時期に、何をするかと見ていればふらふらと何処かに家族に断りもなく出かける源三さんを見た美智子さんは公則さんにこう愚痴をこぼしました。 なぜなら最前恥をさらしたことにしても施しがなければどうあがいたって乗り切ることが出来なくて本家である中 (なか) の徹さんに仕方なしに躰を任せ一時期夫婦仲が微妙になってしまったからでした。 爪の先に火をともすべく貯めた虎の子を持ち出し豪遊しまくったのは何を隠そう、当の源三さんだからです。
「おう、言われんでもそんぐらい儂だってわかっちょる」
公則さんは不機嫌そうにこう応えました。 が、親の面倒をみるのが子供の務めと幼い頃から親にも学校でも、そして軍隊でもそう教えられ躰の隅々までその精神が染みついていたからでした。
- なんだい、それほど言うなら実家に泣きつき何でも良いからもらって来い -
情けない話ですが公則さん、心の中で妻に毒づきました。
公則さん、夫婦間で大喧嘩に発展した美智子さんと中 (なか) の徹さんとの関係を忘れたわけではありませんが、貧乏故に野菜と米しか口に入れておらず反論しようにも精神はもちろん体力的にも締め込みなどやる気が起こらないほど限界に近かったんです。
そこまでしてもやっぱり盆が近づくと情け容赦ない取り立てが待ってるものですから中 (なか) の徹さんに借金の申し込みをせねばならず、さりとて返すあてもなく公則さんは心底疲れ切っていました。
昼間妙な口論したというのに夕方になると公則さんも美智子さんも忙しさのあまり源三さんのことなどすっかり忘れていました。 日も暮れてそろそろ寝ようかなと思ってた矢先玄関に訪うものがおりました。
「ごめんくださいまし。 こちらは長嶋源三さんのお宅ですか」
怪訝に思って一応主である公則さんが応対に出ると屈強な男ふたりがかりに背負われ上機嫌の源三さん
「源三さんをお連れしたんですが、お支払いもこちらで宜しいでしょうか」
よくよく事情を聴くと、鮎釣りに出たらよく釣れたものでそれを持って行きつけの店にちょっと寄ったというんです。
ちょっとすぐ近くの店に一杯ひっかけに・・・どころではありません。 源三さんが通うのはここいらで言うところの都市部の二階で密かにナニを買う店なんです。
何処をどうやって移動したらそのようなショバに行きつけるのか源三さん、自慢の釣り竿なんぞそこいらに放っぽらかして目の色を変え買いに走ったようなんです。
まことにご都合主義で、仕事は引退しているもののアチラの方は現役バリバリ、買うだけならまだしも お殿様気分で周囲の者にまで奢りまくり豪遊しその勢いのままツケ馬と一緒に帰って来てるんです。
昼間に夫婦間で嫌な雰囲気になったというのに、今の今もう中 (なか) の徹さんの元に妻を走らせお金の工面をせねばならぬとは・・・公則さん、この時ほど入谷村と上手 (かんて) 家が嫌になったことはありませんでした。
「爺さん、いい加減あの店へ行くのは勘弁してくれよ」
「あ~ん、ほんなら何か? 儂がここにいたら迷惑だ。 出ていけと言うんか」
ろれつが回らないにもかかわらず痛いところを突いて来る父、それをまた前田 (まえだ) の家の者が何事かと見物に来ている前で聞こえよがしに怒鳴るんです。
「いやねぇ~・・・その~爺さんちょっと飲み屋で呑み過ぎて・・・」
しどろもどろに言い訳する公則さんに
「源さん、普段は我慢して好々爺ぶってるんだからたまには羽目を外したって・・・」
事情をよく知ってて余計な口を利く前田 (まえだ) の主勲さんと嫁の佳織さん
気持ちはわからないでもありませんでした。
妻の美智子さんは噂のあった中 (なか) の徹さんと今でも親密に話し込んでいる - そう思わざるをえなかった - ところを公則さんばかりか源三さんも時々良からぬことを目にしてたんです。 それが未だ現役のオトコを怒らせました。
しかもこの時代はまだ薄壁ひとつ隔てた夫婦部屋で時折り夫婦ですから睦ごとも行っており睡眠障害のある源三さんにはそれがよく聞こえるんです。
老いたとはいえ下半身はまだまだ現役なもんですからそんな音を・・・と言うか妖しげな音色を聞かされた翌日からしばらくは真面目に働く気など起こらなくなった。 そんなことぐらいわかってるんですが・・・だからと言ってどうしろと言うんだと怒鳴りたい公則さん
美智子さんにしろ中 (なか) の徹さんにしろその辺りのことはよくわかっていて、だから気を利かせ今回もツケ馬に払う以外に翌日から当分の間その女の元に出かけるだけのお金を工面して美智子さんは帰って来てました。
美智子さんも源三さんもその件については持ちつ持たれつですので良いに決まってますが公則さんだけは良いわけがありません。 こうして公則さんは村の外に夢を抱くようになっていったんです。
同じ時代に生きた大山康晴の弟子だった幸吉さんは行き場を失って土木作業にその身を置いていますし、その妻の好子さんは売れなくなってヨイトマケに身を置いてます。 こちらは仕方なしにです。 大阪と入谷村では同じ時代でもこれほど違ったんです。
そこで公則さんは精一杯格好つけてお願いに上がり里の建設会社に雇われとなったわけですが、問題はその地位です。 大阪で行ってる建設現場を日頃から見慣れていたら別ですが山子しかやったことのない公則さんにとって車の運転とか重機の運転はさしおいて、最低限出来て欲しい削岩機の扱いすらできなかったんです。 もちろん測量だの図面を見るだのはとても無理でした。 従って年下の使い走りに命じられてせいぜい猫車 (ねこぐるま - 一輪車) を使っての運搬程度が関の山だったんです。 肉体に鞭打って労働に従事しなければなりません。
通勤にしたってなにせ里までは1里半あります。 それも自転車でです。 入谷村の村道たるやついこの間自分たちで道普請したばかりのでこぼこ道で行きは確かに下り坂ですから乗ってれば勝手に下って行きます。 問題は帰りで自転車も漕げないほどの上り坂、大通りに出たと言ってもそこは砂利道で角ばった石をよけながら自転車を漕ぐしかないんです。
朝8時から作業開始ですから少なくとも7時前には家を出る必要があり、この時代は陽が暮れるまで現場で働かされますから陽も落ちた砂利道を心もとない自転車のライトを頼りに走りやがて立ちふさがる坂を自転車を押して登り・・・家に着くころには口もききたくないほど疲れることになります。
妻の美智子さんに苦労を掛けないため朝は暗いうちから牛の飼い葉のため草刈りを済ませ持ち帰って、後は美智子さんに任せるにしてもやっと朝食にありつける有様なんです。
そこまで頑張って当時の手取りは大の男が働いてせいぜい月額1万円に満たない程度なんです。 ですが源三さんが買いに走るとなるとその数倍のお金が必要となります。
ここでも淡路や大阪で売った好子さんに比べ源三さんのそれが如何に少なすぎ、入谷村に至っては徹さんや寛治さんの恵みが如何に微々たるものか、しかも美晴さんは別として晴世さんたるや廃人同様になったわけですから如何に無理難題を押し付けたかがよくわかります。
公則さんがそうまでして里の建設会社に出向いたのは恐らく集団就職で故郷を離れたがる子らと同じような心境に至ったんじゃないかと思われるんです。
上手 (かんて) 家、公則さんの心の内とは裏腹に源三さんにお金がかかり始めたのと合わせ ふたりのお子さんである恭一くんに悦子ちゃんにもこれまた今まで以上にお金がかかるようになりました。
こうなると頼みの綱は美智子さん以外ありません。 美智子さん、中 (なか) の徹さんだけでは足りなくなり当時既に行き場を失って下組 (しもぐん) を徘徊していた原釜 (はらがま) の寛治さんにも自分から声を掛け頼るようになっていったんです。
最前お話ししたように寛治さんは徹さんのようにはいきません。 ところが経産婦とは不思議なもので美智子さんの方が自ら進んで寛治さんの異常な性癖に合わすようになっていったんです。
徹さんとの逢瀬は上手 (かんて) の直ぐ裏手にある鎮守の森でしたが寛治さんとのそれは下組 (しもぐん) の守護神 大日如来像が祀られてる御堂の中で例によって例の如く行われました。
大日如来堂は上組 (かみぐん) の地蔵堂などよりはるかに立派で荘厳な建物なんです。 しかもそこはつい近年まで女人禁制でした。 そんな場所に連れ出された美智子さんでしたが寛治さんの施し・・・いや施術は過去の男に比べ刺激が強すぎたのか美智子さんをして夢中にさせてしまったようでした。
あんな野郎に負けてなるものか! 入谷村に自分の力で橋でも架けることが出来れば神とあがめられるとでも思ったんでしょう、公則さんは将来の入谷川脚橋工事の現場監督を目指し修行に明け暮れました。
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