隣村への蔑視
やっと地元の若い漁師さんを捕まえて場所を訊くことが出来たが、
「うん? どこな? どこへ向かいんしゃる?」
男は魚を扱っていて汚れたであろう手を、腰にぶら下げたタオルで拭きながら加奈子に躰を摺り寄せるようにし尋ねた。 加奈子は観光パンフレットの地図を見せ、予約を入れてある民宿を指し示しこう述べた。
「ここです。 この、大浦さんって方の民宿です。 この道に沿って進んだら辿り着けますか?」
ごく普通にものを訪ねたつもりだった。
ところが男は当初地図を覗き込んでくれてはいたものの、その場所が鰐浦とわかったところで地図から目を離し、ついでに加奈子と距離を置き、大浦という名前を聞いた途端、あっちへ行けという風に手をヒラヒラと横に振ってこう言った。
「知らんとばい、そげん地図持ってとらすけん、そうじゃなかとか?……目と耳があっとじゃけん、自分で探しんしゃい」
あの美宇田浜で出会った高浜と名乗る男とえらい違いだと、ぶつくさ言いながらも加奈子は気を取り直し、道に沿って歩を進めた。
つい数分前、人生初と思えるへまをやらかし道に迷って途方に暮れたというのに、またしてもこの泉地区で加奈子は道に迷った。 最初に迷ったのは地図を見てくれた男と別れ、ものの100メートル足らず進んだT字路でのことだ。 普通、同じ広さの道なら真っ直ぐ進む方角が本道のはず。 が、対馬というところはそんな常識が通用しないらしく、いつの間にかアスファルトが切れ険しい山道に入り込んでしまっていて、いよいよ車も通れないだろう道幅、人が通ったであろう跡さえないことに気づき引き返した。
二度目に迷ったのは元の道に戻り、その先のY字路に差し掛かった時だ。 一方は平坦地で集落内に同じような道幅で向かっており、もう一方はやや狭くなり小さな上り坂となり、坂の下から見た限りではそこから先集落は途切れている風にも見える。 迷った時のことを考慮に入れ、加奈子はこの時まさかに備え地区民に相談できる宅地方向の道を選んだ。 だが、その道もものの150メートルも行かないうちに岩だらけの海岸線に行き当たってしまった。 振り返ると丘の上でその家の住民らしきおばあさんが笑っている。
どうせ訊いたって応えてくれないだろう――
そう考えた加奈子は、やるせない気持ちにはなったものの、仕方ないと鳥居の前まで戻り、坂を上った。 鬱屈した気持ちを振り払ってくれるかのように坂の向こうにはきれいな水をたたえた小さな湾があり、道は湾に沿って迂回し、湾の対岸から海を外れ再び山間へと連なっていた。
小旅行とはいえ選んだ場所が場所である。 わずか10キロの道程中に比田勝を除き3つの集落が点在する。 そのいづれも田舎風に言えばお隣さんは至近距離にあり、当然交流があるはずなのに、何故だか距離を置きたがってる風に加奈子には感じられた。
(…そうか……それもそうね……彼らの交通手段は船。 道があったって車を持たないんじゃ必要ないもんね……)
良いほうに考えようとした。 何処に向かうにも、例えば買い物に出かけるにせよ船を使う。 隣の集落に向かう必要性に迫られない。 こういった生活を繰り返すうち交流を持たなくなってしまったからだろうか……加奈子はそう思うことにした。
泉で声をかけてきた男は、明らかに加奈子に脂ぎった視線を浴びせ近づいてきた。 にもかかわらず、加奈子が鰐浦の、それも大浦家に向かうとわかった途端、周囲のみんなと歩調を合わせるように逃げてしまった。 交流の何たるかを知ったような気になった。
(…ということは、あの西郷どん、地の人間じゃなかったんだ……)
少なくとも高浜は泉の男と違って加奈子に好意を寄せてくれた。 時間に制限がなかったら、きっともっと話すことが出来ただろうにと
不意に心細さと懐かしさがこみ上げてきたが、今更美宇田に引き返すわけにもいかず、引き返したとしても恐らく高浜はもういないだろうと諦め、気を取り直し、泉で出会ったような男に襲われないよう、童謡を大声で歌いながら豊集落を目指した。
小高い丘の上から見下ろす豊集落は泉とはまるで違った雰囲気を醸し出していた。 集落の入り口付近には小さいながらも瀟洒な建物が整然と建ち並び、しかもその建物群は集落の半分を占めている。 そこでは小さな子供たちに交じって母親らしき女性が賑やかに子供たちに混じって遊んでいた。 加奈子がそのうちのひとりの女性に向かって道を問うと、鰐浦はその先の険しい峠を越えたあたりだと教えてくれた。 ただし大浦という民宿は知らないという。
あれは何だったんだろう―—
長い道のりを、加奈子はそればかり考え歩を進めた。 これなら何も対馬くんだりまでわざわざ出かけてこなくても、休暇期間中部屋にこもり寝ておれば忘れてしまうのにとさえ思うようになっていた。
加奈子は礼を言ってまた歩き始めた。 豊集落で人に出会え、しかも話せたのはその時だけだった。 ずいぶん民家がt勝ち並んでいるというのに、この時間それらの人を目にすることはなかった。 彼女の気を紛らせてくれたのは対馬独特のリアス式海岸だった。 山道に至ったかと思えば、すぐに海岸線に至り、そこを過ぎるとまた山に入るという風に、景色が目まぐるしく変わる。 そかも行きつく先、行き着く先の海岸は見事なまでに海水が透き通り、心が洗われるようなのだ。 集落の外れにある小さなトンネルを越えると、そういった小さな入り江の先になるほどと思わせる急こう配の曲がりくねった道が山のてっぺんに向かって続いている。
(やれやれ……これを越えろってこと?……)
いい加減歩き疲れてげんなりしているところに心臓破りの坂である。 よたよたと中途まで登ったところで道端に座り込みそうになった。 その時である、背後から轟音を立て青色のバスが登ってきた。 今時こんなバスがと思わせるボンネットバス。
(助かった~……あれに乗せてもらおう……)
加奈子はバスに向かって手を挙げた。 だが、バスはスピードを落としてはくれたものの、止まることなく行き過ぎた。 バス会社に苦情を言ってやろうとよく見ると、乗客はすべて自衛官。 どうやら自衛官送迎専用のバスだったようなのだ。
チェッ、ケチ、女がこんなに苦労して歩いてるんだから乗せてくれたっていいじゃない。 税金泥棒がと、ぶつくさ言いながら、加奈子はまた歩き始めた。 すると、バスから遅れること数分、何故だか乗用車が列をなして登ってきた。 ほぼ車などは知らないはずの道を。
その車列の最後方の一台が加奈子の前で止まった。 助手席の窓を開けにこやかな顔をのぞかせたのは、あの高浜だった。
「お疲れさん、乗って行かん?」
「ええっ、いいんですか? 急いでるんでしょ?」
バスと言い、乗用車に乗った連中と言い、大半が自衛官の服を着ている。 ということは今は私服であっても高浜も自衛官ということになる。 大変な人を密漁者扱いしたと、一応断ると、
「ええですよ、儂の車を止めとるとこはすぐそこですけん。 オンボロじゃけんど、加奈子さんを乗せて坂を上るぐらいできっと、儂
別に急がんとです」
いうが早いか、助手席に載せていたバッグやらこまごましたものを後部座席に放り投げ、加奈子のための席を確保してくれた。
「最初からそう言えばいいのに……高浜さんって……」
謝る加奈子に
「あんこつは内緒だつ。 部内のもんはみんな知っとっとばってん、外部に漏れでもしたら……」
チョンと首を切るような真似をした。 どうやら彼は仲間に食わせてやる目的でアワビを命がけで獲っていたようなのだ。
その、命がけで獲ったであろうアワビの一番大きそうなのを2枚もひとりで食べてしまった。
「ウチって……共犯ってことよね……」
消え入りそうな声で訊く加奈子に
「もう終わったこどですけん、気にせんと」
こともなげに笑い飛ばす。
鰐浦峠から見る山々はヒトツバタゴの花で埋め尽くされていた。 湾の向こう1キロの海上に自衛隊の島、海栗島が見える。 この坂を下ったら高浜は海を渡ってあの島に行ってしまう。 どうあっても引き留めようがない。 思いあぐねて民宿のことを訊いてみることにした。 そうでもしなければどうにかなりそうだったのだ。
「大浦って名前の民宿……知ってる? 鰐浦の」
高浜はいわばこの地区・漁民から見れば部外者。 如何にも親し気に教えることなどできないだろうとは思いながらも、一応訊いてみた。
「知っとうよ。 船長の家じゃろ? ケチじゃから、あんまええ料理出さんとバイ」
笑いながら、自衛隊の渡船の船長が民宿をやっているから多分それだろう。 渡船場まで一緒についてきたらいいと教えてくれた。
話しのついでに豊集落でやさし気なというより、超美人な人妻さんに道を教えてもらったと、高浜の気お持ちを探りたくつぶやくと
「ああ、それなら宮田3層の奥さんバイ。 あん人はきれいじゃばってん、気の強か~」
笑いながら、こう教えてくれた。 集落に入り口付近に固まってきちんとした家が立ち並んでいたのは、自衛隊の官舎だと教えてくれ、名残惜しそうに加奈子に向かって手を振って渡船に乗り込んでいった。
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