深夜、どこからともなく聞こえる嬌声
魚介類ではなく、蒲鉾やハムなど都会の、それも大食漢が好んで食べる安くて量勝負のそれがインスタントの吸い物とともに供されたのだ。 こんなものを対価を払ってわざわざ遠方まで食べに来なくても、東京ならもっとましな総菜がいくらでもそこいらで売られている。
(かなわないわね……こんなものがごちそうって考えること自体、どうかしてるわ……)
原料が気になって食べる気がしない。 が、もしこの他のどこか他の宿に泊まったとしてもどこも同じなら、しかもそれを毛嫌いするなら、すきっ腹を抱えあの船にまた乗って引き返さなければならない。
(みんな中身はともあれ、楽しかったようなふりして帰っていくんだろうな)
こう考えた加奈子は仕方なくそれに倣った。
(それにしても凄い場所ね)
そう言いたくなるのも無理はない。 部屋中隙間だらけ、おまけに新建材の壁。 まるで廃材を寄せ集めて作りましたと自慢されてるような建物なのだ。
民宿と名乗るには立地条件もそれなりに良いところがあるはずだが、ここに来るまでの間幾度となくきれいな海岸線を眺めながら来たものだから、家の前も後ろも山が覆いかぶさったような、すり鉢の底のような佇まいに、なんでこんなところを選んだんだろうと、気分まで滅入り始めていた。 マンションの高層階に住めると喜んで部屋の窓を開けたら、目の前は隣のビルの壁だった……・というのがあるが、この民宿はまさにそれなのだ。
(でもまあいいか……高浜さんの仕事場って、見た目には風光明媚な島に見えるけど……言ってみれば獄門島、監獄よね……)
鰐浦の港からわずか1キロの沖合に浮かぶ島とはいえ、鰐浦の港からして清らかで澄んだ水のはずなのに深すぎて海底が見えなかった。 波止場で鯵釣りしていたのでそばによってみていると、釣り糸を垂れた岸壁の直下からしてすごい勢いで海流が流れていた。 脱走しようにも余程泳ぎの練達者でなければ我が身が危うい。
五右衛門風呂だって、せんべい布団だって、あの島に閉じ込められることを思えばそれほど苦にならなかった。 たった1日歩き回っただけで不平不満を口にする自分って、やっぱりどこか贅沢すぎたんだと自戒し眠ろうとした。
民宿は海に近いとはいえ、ただでさえ急峻な山に囲まれ、わずかばかり開けた地を利用するしかない、そんな谷あいにあるからだろう。 海鳴りのようなごうごうという音が強風に乗って聞こえてきて薄い板壁を叩くものだから、この家は本当に大丈夫だろうかと、そのことが気になって眠れない。 どれぐらい時間が経っただろう、風の音に混じって誰かが叫ぶような声が聴こえてきた。
(いやだわ……こんな夜中に家庭内暴力? ありえない……)
来る道中、違和感漂う人たちばかり見てきたものだから、どうしてもそう言った風にとらえてしまう。
しばらく我慢し、寝たふりしてみたが、どうにもその声が耳につき、とうとう起き上がって窓を開け外を見た。
空耳じゃなかった。 闇夜の、それも民宿にほど近い家の玄関あたりで誰かが揉み合ってる。 止めに行かなきゃと部屋を出かけて船長さんに呼び止められた。
「構わんで、ほっときゃじきに収まる。 心配せんでええ、いつものことじゃ」
顔を歪めこう言い放つと、さっさと自室に戻ってしまわれた。 何か言おうとしたが、昼間の、それもこの地区全体の雰囲気からして言ってみたところでどうにもなるまいと、その場はおさめ床に戻った。
なんてところに宿をとったんだろうと、今更ながらに後悔した。 お客様を迎える態度といい、料理といい、とても褒められたものではなかったからだ。
外ではその夜、それどころではなかったようなのだ。 加奈子は東京慣れしていてそれほど耳は良くなかったのか、それとも自分では気づかなかったが疲れて寝てしまったのか、あれ以降のことは覚えていない。 しかし騒ぎは明け方まで続いたらしく、とうとう隣近所の人も手伝ってその場を収めたらしいのだ。
のだというのは、翌日泊まった宿でその話が出たからだ。
高浜と同じクルーで働く人たちが島に渡ると、それと入れ替えに勤務を下番し外出してくる自衛官がいる。 加奈子はそのうちのひとりに声をかることにした。 鰐浦から比田勝に向かう、恐らく彼が持っているであろう車に乗せてもらうためだ。 今度こそ、せめて比田勝に宿をとって歩き回りたいと思ったからだ。
「こんな時間に出てこられたということは、今朝夜勤明けだったんですか?」
朝一番の船に乗って出てきたんだから、当然そうだろうと思って声をかけた。
「僕は下宿持たんとばって、泊まるとこ無かから夕方外出できんとです。 ばって朝出て、夕方ん便で帰るとです」
たったそれだけの時間自由になれたからって、それほどうれしいのか。 外出先の比田勝ってところはそんなに面白いのと言いかけてやめた。
自分だって今すぐここを出たがってるし、ましてや下宿も持てない自衛官が車を持ってるわけがない、それでも比田勝に向かいたがってるからだ。 自家用車に乗せてもらうのは諦め、来た時と同じように比田勝に向かって歩き始めた。 自衛隊さんは恐らく彼ら専用の意車で街に下るだろうが、民間人の自分が乗せてもらえるわけはないことぐらい、昨日いやというほど思い知らされている。 諦めて鰐浦の峠を半分ぐらい登ってきたところで後ろから来た自衛隊のトラックが止まった。
「比田勝まで行くんじゃろ? 乗ってかんか?」
親切に声をかけてくれた。 加奈子が驚いたような顔をしていると、
「昨日はすまんかった。 みんなが乗っとる時には乗せたら後がうるさいけん」
トラックなら数人しか乗ってないから大丈夫だと説明してくれたが、その数人はトラックの荷台に乗って……いや、積載されているのだ。
「いいんですか? 前に乗っても」
「ああ、あれね。 構わん構わん、あいつらは慣れとる」
「慣れとるって、どういう意味ですか?」
それほど上下関係が厳しのかと、訊かなくても良いことをつい口にした。 ところがそれには応えず
「ろくな燃料使っとらんばって、荷台は排ガス巻き上げ、慣れん新米は終いにゲロするとです」
加奈子はここでは貴重な女性だから粗末に扱えないと、こう言うのだ。 その意味を含め昨夜の出来事を、この時乗せてくれたドライバーの工藤が探してくれた宿の主から聞かされることになる。
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