夕暮れの岸壁に佇む女

比田勝に来て、何度も店の前を通りかかっているが、この店に人が入っていくのを見たことが無かった。
「暖簾が出てるんだから、営業してるんだろうが……」
独り語ちて、矯めつ眇めつ店に入っていった。 結構な時間、港を眺め様子を伺っての入店だったが、その間誰ひとりとしてこの店に入らなかった。 食当たりのことも考えはしたが、それより興味本位的な気持ちが強かった。
「ごめんください」
思った通り、店内には誰もいなかったので加奈子は店の奥に向かって声をかけた。 しばらくしておばさんが出てきて
「あらっ、いらっしゃい。 ずいぶん長い間ウチの店、見てらしたから、入りたいんじゃないかと思って待っとったとですよ」
観光客相手に、丁寧な言葉づかいしようとしてただろうが語尾がなまってる。 その仕草がおかしかったが、待ってくれてたのは有り難かった。
こんな有り様だからできるものと言えば限られてるとの説明を受け、それならとちゃんぽんを頼んだ。 東京の味が懐かしく、ラーメンを頼みたかったが、この店ではやってないという。
入ってくれるのを店の奥でじっと待ってたと発言されただけあって、ちゃんぽんはすぐ出てきた。
「おばちゃん、ウチが観光客だからこんな大盛りにしてくれたん?」
褒めてるんじゃなく、その盛り付けに呆れ返って、ついこう言ってしまった。
「ちゃんぽん食べたことないん?」
ここいらじゃこれが普通だという。
ほぼ生の野菜が麺を覆い隠し、それなりに大きい丼から零れ落ちるぐらい山盛りになってる。 食べたかった麺を探しさすのに苦労した加奈子。 やっと探し出して口に入れはしたが……ラーメンに比べ如何にも太く、歯ごたえたるやぼそぼそしている。 客が来ないのはこのせいじゃなかろうかと思った矢先、おばちゃんから先に具を食べてから麺を食べたほうが良いとのアドバイス。
東京育ちだけあって、加奈子はどちらかというと野菜より肉・魚が好きで、麺の上にはチャーシューじゃないかと、つい思ってしまった。 その野菜を、これでもかというほど食べさせられたのには閉口した。 しかし食べているうちにどんぶりの中のスープの味付けがラーメンに比べ遙かに豊かであることに気付く。 ちゃんぽんには豚肉のほか海老や貝、タコ等々数種類もの具が入り混じり、それらの味がうまくミックスし、スープ中に溶け込んでいる。 純粋というか澄んだスープを好む日本人にとって、あまり馴染みがなく嫌がる人も多いのいかもしれないと思ったが……。
加奈子は食べ終わって疑問がわくような何かを口にしたのはこれが初めてで、妙に余韻が残り癖になりそうな気がした。
「この味と、このやり方をこのあたりの人たちは好まないんですね」
加奈子が問うと、このあたりの人は慣れてるから大丈夫だけど、内地から来た人に、余計な世話だけど遠慮して食べないよう忠告されてしまうんだと、苦笑いしながら語ってくれた。
(須らく人の顔色をうかがう文化か……)
愚痴ってみて初めて、自分の愚かさに気付かされた。 好きなようにこの地を闊歩し、そこに透き通った海があるんだから、遠慮しないで暇なら釣りでもやればいいじゃないか、と気が付いたのだ。
丸福ラーメンを出るとその足で隣の脇本商店に立ち寄った。 場所的に観光客だって今の自分と同じように釣り具などを買いに来るだろうに、遠慮がちに店の片隅に釣り具が並べられている。 女子供でも扱え、しかも店の前の海で釣りができる道具でももしあれば買おうと、彼女なりに探し回った。 もしというのは豊かな海が開けているのに、このあたりの人で釣りをしているのを見かけたことが無かったからだ。 鰐浦で見た釣り人は対岸から休みを利用して来た自衛官。 比田勝で唯一釣り具を売ってる店がこうだとすると、彼らは本土でそれらの道具を買い求めてきたことになる。
鰐浦で見たようなグラスロッド的道具が欲しかったのに、そこに売ってあったのはまるで場末の釣り堀で貸し出してくれるような竹竿みたいな道具ばかり。 なのにハリスや釣り針は必要以上に太く不格好。 それもそのはずで、大半は漁師のための道具だったようなのだ。 店の女の子は最後まで丁寧に対応してくれ、欲しかったものがまるでないことに、酷く気の毒がってくれた。
(へえ~、あんないい子が比田勝にいたんだ……可愛らしくて気立ても良くて……)
道具が売ってなかったことより、その子に会えたことでむしろ徳したように思えた。 ところが、すぐ隣の魚屋に立ち寄って獲れたての魚をあれこれ見てると店主らしき男が現れ、隣の店に入ったかと訊いてきた。 入ったと応えると、すかさずケチをつけてきた。 聞かなかったフリし、女将へのお土産にとっておきの魚を一匹買った。 それでも持ち帰ることにしないと、あの子に悪いような気がしたからだ。
それからというもの路地を通って港まで出るとまず食堂に寄ってちゃんぽんを体重を気にしながら食べ、食べ終えると脇本商店に向かった。 お隣の魚屋さんからケチをつけられた彼女だったが、加奈子にはそう思えなかった。 彼女を見ると、何故か心休まるのである。 その子が、通りの人と顔を合わさないよう気遣いながら店の奥からじ~っと通りを、ある時間帯になると見つめてることに気付いた。
自衛隊の輸送班の青いバスが交番脇の駐車スペースに入ろう頃の時間帯に合わせてである。
(はは~ん……あの子、イケメンの工藤にぞっこんなんだ……)
東京で幾多の男と交際した加奈子にとって工藤は、確かに明るい雰囲気の自衛官には違いないが、その子の雰囲気からすると似合わないような気がした。
「ねえねえ、輸送班の工藤って子と付き合ってるの?」
脇本に入って商品を選ぶフリして余計なお世話は百も承知で隣に立つ彼女に訊いてみた。 すると……
「えっ!? 工藤さんて、誰?」
素っ頓狂な声が返ってきた。
「バスの運転手さんよ。 自衛隊の」
「あのバス輸送班って言うんですか? 町営のバスじゃなかったんですか? 工藤さんて……初めて聞く名前です」
問答にもならなかった。 自分でさえ一目で自衛隊のバスとわかったのに、彼女はここから毎日のようにあのバスを目にし、未だに町営バスと勘違いしてる。 この時加奈子が思ったのは、この子ってどこまで純情だろうと。
バス停と脇本商店は目の鼻の先、恋焦がれる相手が目の前にいるなら当然工藤も店を訪れるだろうし、頻繁に顔を出されたら、いかにこの子だって彼の名前を憶えているだろう。 だが、この子の表情からそもそも輸送班の人間がこの店を利用したことなど無いと感じ取れた。
(…いや、絶対違う。 あの目は恋する人を追いかけてる目だった……きっとそうだ……じゃああの時彼女はいったい誰を見てたんだろう……)
この地に似つかわしくない、目頭が熱くなるような淡くて切ない雰囲気に、加奈子はついついのめり込み、更に熱心に彼女の様子を探った。
そんなある日の夕刻、あのバスが到着する寸前にその前をランナーが走り抜けるのを目にした。 背は確かに低いけれど凛とした顔つきと走りっぷりで、しかも相当速い。 その彼が魚屋の角を曲がりメイン通りに消えゆくのを、あの脇本商店の奥から熱心に覗き見てる彼女と目が合った。
慌てて店の奥に引っ込もうとする彼女。 加奈子はしばらく時間を置いてから店を訪問することにし、とりあえず今 目の前を走り去った彼の行方を目で追いかけた。 あの子のことを気にかけてくれているなら、引き返してくるはずだからだ。
ものの数分も経たないうちにメイン通りの向こう側から引き返してきた彼は、そのままバスの中に入っていった。 ということは彼は鰐浦からあの速さで比田勝まで走り通したことになる。 ところが、バスの中にあった荷物を受け取ると、彼はフェリーターミナルの方角に、脇本に立ち寄ることなく去っていった。
「ねえ工藤くん。 今の彼、誰?」
あの速さで走るのだから、自衛官として相当名高いと思いきや
「えっ!? さっきの? 加奈子さん、あいつが好みだったの? 俺は部隊が違うばってあいつの名前ば知らんのよ。 まあそういってん新兵やけん」
知らないわけがない、それを口にすること自体いやだったのだ。
何がどうというのではなかったが、脇本商店の女の子の気持ちもわからないではなかった。 キューピットどころか周囲はみんな敵だらけだったのだ。
振り返ると、ついさっきまで熱心に走り去っていく彼を見つめていた当の女の子の姿は、もう店先から消えていた。 到着したバスはほんの少しそこにとどまっていたが、しばらくしてまた、鰐浦に向かって引き返していった。
(高浜が教えてくれたことが本当なら、彼女と彼をくっつけるチャンスは今日か明日しかない)
仕事を終え、夕方にかけて街に繰り出すと、もう翌日の正午過ぎには部隊に夜勤上番のため帰ってしまう。
加奈子は焦ったが、ランナーの彼は港で、どんなに待っても姿を現してくれなかった。 不思議なことにランナーの彼の姿もそうなら、脇本商店の彼女の姿も忽然と加奈子の前から消えたのだ。 この町でふたりについて、誰に訊きようもない。 それでも諦めず加奈子は晴れた日には必ず通りを歩いた。
脇本商店を何度訪れてもあの子に会えなかった。 そんな日が幾日も続いたある日の夕刻、何故だかその彼女が岸壁に立って遠くを見つめていた。 とても声を掛けられそうな雰囲気じゃなく、ただ幸多かれと祈るしかなかった。
彼女の情報は意外なところから届いた。
「あんた、熱心にあの子の応援してくれてたんだって?」
あの子といわれ、ピンと来なかった加奈子は
「あの子って、誰ですか? ひょっとしてランナーさん?」
この年齢のおばちゃんともなると、とかく若い子に目を向けたがる。 図星だろうといった風な顔をすると、
「ランナーって、あの足の速い子? そうじゃばってん……、あの子たい。 売り子さんもたい」
「売り子さんって、脇本の? おばちゃん、なんであの子がそんなに気になるん?」
若者同士の恋路、当然の問いかけだったが、
「そうか……あんたでさえも知らんかったんだ……あの子、あの日の夕刻にね……あのまま船に乗せられ、売られていったんじゃ」
泣きそうな顔のおばちゃん、口には出してもら和えなかったものの、ランナーの男のとは頻繁に脇本商店に入り、長い時間をそこで費やし、また下宿に引き上げて行っていたという。
「あたしゃどんな話ししとったか知らんばって、好いとったとよ、お互い。 見取ったらわかる。 可愛らしいもんじゃ、あん年頃は……」
バスを乗り継ぎ、相当時間をかけ比田勝に通っていたとおばちゃんは言った。 遙か田舎と、通勤路しか彼女の世界観はない、そんな中で加奈子に自衛隊のバスについて問われ、咄嗟に町営バスの口走ってしまったのだ。
親の借金の方に、学校もろくろく行かせてもらえず、安い給料で脇本商店に使われていたが、その程度の給料じゃ間に合わなくなり、とうとう本土の初老の男のもとに売られていったという。
「あの子……最後まで諦めきれない、絶対帰ってくる言うて泣いとったバイ……可哀そうにのう……」
言い終わるや否や、目頭を押さえ店の奥に引っ込んでしまった。
丸福のおばちゃんの言うことが本当なら、彼女は5トン未満の漁船に乗せられ、加奈子でさえ音を上げた玄界灘を木の葉のように揺れる中、売られていったことになる。 加奈子が見るその日の港は何事もなかったかのように穏やかだった。
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