島に別れを告げていた高浜

加奈子は電話口に向かって泣き叫んだ。 脇本商店の売り子のことを、せめても高浜にだけはわかってもらいたかったのに、その高浜はすでに自衛隊を退職し実家に帰ったと、電話口に出た当直隊員が乾いたような声で告げたのだ。
加奈子と美宇田浜で出会ったとき、高浜は獲れたアワビを仲間に配るんだと張り切った声で言っていたが、加奈子はその意図を理解できずにいた。
美宇田浜で加奈子に食べさせた残りのアワビは退職に際し、何かの記念になるよう無理して獲っていたのだ。
離島で青春などということに背を向け勤めあげるのは並大抵のことではない。 離島に閉じ込められる、たったそれだけのことで精神を病む。 それを忘れさせてくれるのが、例えば脇本商店の売り子さんのような存在だ。 ところが、島にいる女の子には以前も述べた対馬独特の習慣が付きまとう。
好きな子が出来たとし、本人同士はそうと知らず付き合っていても、周囲がそれを許してくれているとは限らない。 ライバル他者はそれをよいことに、地元民に取り入って裏から手を回し横取りしようとする。
恋愛問題ではないにしろ、高浜はそういった軋轢に負け、自ら退職を選び島を去っていた。
加奈子を鰐浦まで送ってくれた時の高浜の衣服は確か私服だった。 彼は退職前の貴重な休暇を実家に帰らず美宇田浜で過ごし、その時苦労して獲った獲物を仲間に分け与えると、翌日退職の挨拶を終え朝の船で海栗島を離れ、そのまま島を縦断し厳原からフェリーに乗って博多に向かっていたのだ。 高浜にとって、それだけかつての仲間と呼ばれる人たちに義理で見送られるのが嫌だったんだろう。
退職の理由が便利にこき使われ、それだけ出世が遅れ、仲間たちから散々馬鹿にされ彼女にも当然恵まれず、このままここで朽ち果てるのかと自問自答した結果、退職を選んだ……らしいのだ。
東京ならいざ知らず、こんな僻地にあってなお、競争意識が根強く、人が良いだけの高浜に貴重な女の子をとられてなるものかと部隊内のみならず、地区住民でさえも邪魔者扱いしたようなのだ。 入隊し、7年が経過しようとしているにもかかわらず昇任の順番が巡ってこず、満期退職すると結構お金 (一説には当時のお金で70万程度) を貰えるとわかって諦めがついたようなのだ。
一番情けないのは、7年も離島で我慢させ、鍛え上げた優秀な隊員に、地元民なり先輩なりがこの地に居る気になる相手探しを、何故してやらなかったんだろう。 出世と給料とは別物。 家族を、ましてや大切な女を養うとなれば海だって友達になれたんじゃないかと加奈子には思われたのだ。
美宇田浜で、何故肝心な一言を口にできなかったかと、加奈子は今になって悔いたが、どう嘆いてみても過去は戻ってこない。
高浜が去ったことを知った加奈子は寂しさに耐えかね、その足でターミナルに行き、帰りの切符を衝動買いした。 脇本商店の彼女が小さな船で玄界灘を渡ったんだと思えば、小さいとはいえフェリーで渡るのだってこの上なく贅沢だと思えたからだ。
夕方近く、加奈子は誰に見送られることなくターミナルに向かった。 着いてみると小倉から来たときは気づかなかった倉庫群がターミナルの脇に立っていて、どうやらそこの二階がアパートになっているようなのだ。 倉庫は大きく、恐らくフェリーで運ばれてくる荷物のほとんどが、この倉庫に移されるのだろうと、何気なく看板を見て驚いた。
脇本商店と書かれていた。 学生のバイト程度の賃金で女の子を雇っておいて、会社はこの地区一帯の荷を商い、大儲けしている。 やりきれない気持ちになり、それならと勝手に二回のアパートを見て回ることにした。 もしも脇本商店の彼女ではなく、自分がここに住むことになったら、最初はこういったところで我慢するしかないと思ったからだ。 そのアパート
海風で錆び、コンクリートは劣化し今にも崩れ落ちそうな階段を上るとサッシではなく木製のキッチリ閉まらなく隙間だらけの引き戸があり、そこが入り口だった。 通路沿いに並ぶ部屋も建付けの悪い木製のガラス戸。 手を洗うのがやっとという、同じくコンクリート製の台所らしきものが部屋の上り口の、全体でわずか2畳の脇にしつらえてあり、その奥は部屋数が多いところで6畳と4畳半の2部屋、多くが6畳1部屋の造りで、トイレは共同で汲み取り方式、通路の一番奥にそれはあった。
あの女の子が焦がれたランナーさんは、恐らくこの部屋のどこかを借りていたんだろうが、一見しただけでこれでは一家を構えようがなく、いくら好きといっても噂では相手に借金もあり、告るに告れなかったのだろう。 ひたすらみじめになった。 見なければよかったとさえ思えた。
それからの時間、加奈子はただぼんやりとターミナルで小倉からの船が入るのを待った。 町のみんなも、もちろん自衛隊さんも、どうやら加奈子がいわくつきの女との評判がたっていたらしく、ターミナルにいるというのに、声をかけるどころか目を合わさないようにしながら通り過ぎる。
東京に舞い戻ってみても、以前と変わりないことだけはわかる。 それでもまだ、東京の方が自由に相手を選べるだけマシじゃないかと思えた。 本土に渡れば休みを取って高浜を探し求めることだってできる。 そう思いなおした瞬間、加奈子の前途が開けたような気がした。
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