秘かに島内に帰ってきていた美咲

丁度そこに用事を終えこれから対馬に帰ろうとしていた仁田の翔太と出くわした。 小倉に向かう船で一緒に6時間近く過ごしていて、同じ島出身ということもあり、すぐに仲良くなった。
美咲は何故かひとりでに足が動き、翔太の後を追っていた。 漁民として暮らすのが嫌だと言った美咲に翔太は、それなら農民として生きてゆくのはどうかと提案してくれていたのだ。
幸いなことに仁田には民宿も何軒かある。 翔太となら或いはと、美咲は思い切って彼に連れられまた、対馬へと引き返した。 比田勝に着くと誰にも見られないよう翔太の背中に隠れるようにしながら仁田行きのバスに乗った。
民宿で午前中は躰を休め、午後になるとふらりと翔太の畑を訪れた。 彼のことが心のどこかに引っかかっていたからだろう。
翔太は福岡に出向き、学んで来た技術をもとに畑の土と戦っていた。 薄紫色に咲いているのはジャガイモの花だろうか。 美咲は翔太を呼ぶこともなく、農道に佇んで翔太の働く様子を眺めていた。
畑で働く翔太は鰐浦漁民に比べ、同じ対馬内でも異質に感じられるが、実家近くの人々と違い、どこか気品を漂わせていると美咲は感じていた。 鰐浦にいた時や、まして小倉で風俗をやっていた時、あれほど嫌だった土にまみれる仕事なにのどうしてだろうと考えながら、美咲は翔太をじっと見ていた。
そのうち翔太も美咲の存在に気付き
「よう!」
っと大声で彼女に手を振った。 空は鰐浦と違い同じ島なのに仁田は盆地のようになっているためどんよりしてる。 けれど翔太の笑顔は晴れ晴れとしていた。
爽やかな風が吹いたように感じられ、美咲も翔太に向かって笑みを浮かべ手を振った。 翔太は畑からあぜ道へと上がり、美咲のそばに来た。 美咲の脇にどっかと座るとジーンズのポケットから煙草とライターを取り出し、美咲にも奨めた。
「ちょっと休憩。 ああっ、流石に疲れた」
タバコを咥えて火をつけ、翔太は大きく伸びをした。 そんな彼を、美咲は微笑みながら見つめた。
「どう?ここは。 鰐浦や小倉と違ってここはなんもないだろう? 小倉は博多はよかとばって、あそこで暮らしたことんある人間ば、ここじゃ退屈だろうもん」
そういって翔太は笑った。 美咲は翔太から目を離し周りを見ながらこう応えた。
「何んもないんやなかと。 ある、畑があって、田んぼがあって、花があって、ほんの少し行くと海だって」
翔太が美咲を見、美咲も翔太を見つめ返しこう続けた。
「鰐浦と違って野菜がいっぱい。 民宿の野菜たっぷりの夕食、とっても美味しか。 小倉でん、パンやインスタントラーメンばっか。 あれって翔太さんが届けてくれた野菜でしょ? どうも御馳走様」
翔太は微笑むとタバコをあぜ道に押し付け揉み消し、ちょっと待てと言って畑に戻っていった。
畑を横切りビニールハウスに入ると、何やらもぎ取り袋に入れて持ってきて美咲に渡し、これは路地ものじゃなくビニールハウスで育てたものだけど良かったら食べてと言い残すと、畑に戻ろうとした。
袋を開けると真っ赤に熟れたトマトが入っていた。
「わあ、凄い! これもらっていいの?」
美咲の言葉に翔太は笑った。
「トマトも、みんなが嫌う仁田に来てくれた美人さんに食べてもらえるならうれしいに決まっとる」
翔太が口にしてくれた美咲への誉め言葉は、美咲に勇気と自信を与えた。
翌日は生憎の雨だった。 美咲はすることがなく、翔太に貰ったトマトを勿体なさそうに端から舐るようにしながら口に入れていた。 採れたての完熟トマトは市販のモノより甘く、その美味しさに美咲は感動すら覚えた。
海栗島の給与班では旬であろうがなかろうが、計画に沿って高価なトマトが送られてくる。 見栄えは良いし市販のモノの何倍もするが味は悪く調理に使えないヘタに近い部分は捨てることもある。 だが、このトマトは違った。 齧るたびに感動が生まれ翔太の笑顔が瞼に蘇る。
雨模様であっても、余程翔太の畑に行こうと思ったかしれないが、なにせお百姓とは天気商売、行ってみたところでいなかったらそれまでと、この日は諦めやめておいた。 それに、昨日の今日では海栗島の失敗を再び繰り返すことにもなりかねない。 翔太にだけはそう思われたくなくて行きたいのをじっと耐えた。
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