『トマトを選別する女』 になりたがる美咲

新たな恋人ができた幾世に姉が嫉妬し、当てつけに自分ですら持て余し気味だった漢を、夫の目をそらすため宛がい、その仲を引き裂こうとし、こともあろうに幾世が堕とされ懇願が始まるまで通いつめ見張ったというくだりだ。
(あの姉も可哀そうな人……)
幾世さえ生まれてこなければ、生涯何も知らないまま平穏無事でいられたろうにと思うにつけ、また海栗島での記憶が蘇った。 こんなことを訊いた後は、素直に翔太に会いに行きたいと思えた。 また農道に佇み、仕事に精出す彼を見つめていたいと思った。
大雨が降った翌日の畑はそこもここもぬかるんでいた。 お百姓さんにしてみれば手入れが大変そうだ。 美咲は翔太を目で追った。 美咲の存在に気付いた翔太が泥まみれになった手を大きく振った。
美咲は林田のことを良く知ってる。 思い切って声を掛けたらいとも簡単になびいてくれる。 そう踏んでか、夕闇迫る車庫から道行く自分に声をかけてくれたことがある。
(…あれはたまたまMの真っ最中だったから……・)
体よく断ることが出来たが、断らなかったら今頃自分が幾世のようになってると思うと肝が冷えた。 その点でいうと、太陽の光を浴び、水滴の付いた草花が輝くように、翔太の笑顔は輝いて見えた。
美咲は眩しそうに目を細め、次の瞬間大声で叫んでいた。
「ねえ! ウチも手伝うとたい! 畑ん中へ入っていい?」
美咲の言葉に翔太は一瞬戸惑ったようだったが、叫び返した。
「汚れてんよかならどうぞ」
彼の返事に笑顔で頷き、畑の中へと入っていった。 美咲はズボンの裾を捲り、畑仕事を手伝った。 翔太に教えてもらいながら野菜畑の草取りをしたのだ。
泥だらけになるが、美咲は不快とは思わなかった。 それどころか翔太の指示を受け働くことは楽しかった。 草取りを進めるうちに土の中にいたミミズがモグラが来たと勘違いに慌てて顔を出す。
「きゃっ」
素っ頓狂な声を発する美咲に翔太はミミズがいるのは土が良い証拠だと諭す。 ふたりは笑い合いながら、また仕事に精を出した。
「はあ~、暑い! お化粧……剥げちゃった……」
額の汗を着てきた服の袖で拭い、美咲はつぶやいた。 そんな美咲を見て翔太は微笑んだ。
「気にせんと、美咲。 お化粧剥げちゃったほうが美咲は綺麗とばい。 きちんとメイクしてた美咲も綺麗とばってね」
翔太に綺麗とと言われ、美咲はどぎまぎした。 動揺を隠しながら美咲はありがとうの意味を込め微笑んだ。
作業が一段落すると、ふたりは農道に腰掛け一休みした。 互いに汗の臭いと体温を感じながら並んで道端に座り込む。 黄海に向かって太陽が沈み始め、日差しが徐々に柔らかくなる時間。 翔太と並んで先ほどまで作業してた畑をぼんやりと眺めながら、美咲はポツリと呟いた。
「ウチね、アチラでも、海栗島に帰ってきてからも、色々あって……つまり……嫌なこととか……」
翔太は聞こえてるのかいないのか分からないような表情で、先ほどまで美咲が見ていた畑を眺めてる。 美咲はそんな翔太の横顔をじっと見つめた。 しばらくすると翔太も口を開いた。
「嫌なことか……誰にでんあるくさ。 俺は中州や小倉で遊んだばって……その……え~っと……ようわからんばって……俺なん、つまらんことあったい。 けどな、夕日見たり、こげん風景眺めとったりしとーうちに忘れるったい。 大自然の前でん、俺の悩みなん、ごくごくちっぽけなことっさ思えてな。 まっ、単純っくさ、俺は」
小倉では生きてゆくため、恋なのか、はたまた商売っ気からか、次から次へと男を渡り歩き。 それが嫌で海栗島に帰って来たものの、ここでも比田勝中の同期生の和江や幾世らと男を賭けての戦いのようになり、言いようのないほど汚されてきた。 だのに、噂で知っていて翔太は知らん顔をしてくれている。
美咲は、もうそこから先何も言えなくなって、ただ翔太の横顔を見つめ続ける。 翔太は不意に道の脇の草を毟って口元にもっていき、鳴らした。 草笛が醸し出す懐かしい音色が、雨の後の畑が広がる光景に溶け込む。 美しい旋律に、美咲はふと涙が出そうになり、必死で堪えた。
「草笛が吹くるなんて、器用たいね。 なんていう曲?」
翔太が草笛をひとしきり吹き終わるのを待って、美咲が訊ねた。 涙が出るのを堪えていたためか、声が少し掠れてしまっていた。
「『中央アジアの草原にて』 荒涼としたコーカサスの遊牧民。 ゆったりとした時が流れ、心洗われるような曲っさね。 こん曲を聴いとると狭い対馬だとか仁田がどうとか、忘れるっくさ。 ……さあて、もう一仕事すっか。 美咲、疲れとるばって、ここでしばらく休んどるくさ。 あとで民宿まで車で送るっくさ」
翔太は立ち上がり、美咲に笑顔を投げかけ、再び泥濘へと足を踏み入れてゆく。 美咲は農道に座ったまま、翔太を目で追っていた。 丁度夕日が畑の中の翔太目掛け落ちてゆき、彼の背を美しく染めた。
幾世を堕とした林田のように全身筋肉質の万能選手でもなければ、小倉で弄んでくれたイケメンくんとも違う。 まったく着飾ってなく、それどころか泥と汗にまみれてるのに、目の前の翔太は神々しいまでに美しく、彼と知り合えたという現実に美咲は思わず涙がこぼれた。 美咲は息を殺し、しばらくの間翔太に見とれていた。
その夜、美咲はなかなか寝付くことが出来なかった。 夕日を浴び、黄金色に輝いていた翔太を、彼が恐らく自分のために吹いてくれたであろう草笛による中央アジアの草原にてのメロディーを、絶えず思い出すからだ。
あの林田なら、こう言った状態を見逃すはずもなく、ふたりはひとつになれたはずだと思うにつけ、彼を誰かに奪われはしないかという焦りさえ芽生え始めていた。 どんなに断ち切ろうとしても、女である身に変わりはないことを思い知らされた。
寝返りを打ち、切なさに幾度も幾度もため息を漏ついていた。
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